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盛り上がる藤丸閉店セール。「藤丸百貨店」122年の歴史と未来への道筋

道内唯一の地場資本の百貨店「藤丸」の閉店セールがラストスパートです。2023年1月末の閉店を前に、1月2日の初売りでは1,200人以上が列を作り、現在も閉店セールで連日大賑わいです。そんな藤丸がこれまで歩んできた122年間の軌跡を改めて振り返ってみましょう。

【開拓とともに】帯広の開拓開始の14年後に創設者・藤本長蔵氏が来帯

依田勉三をはじめとする晩成社開拓団が帯広の地に入植したのが1883年のこと。その時の帯広市(当時は帯広村)の人口は27人(13戸)です。

藤丸の創設者である藤本長蔵氏が帯広の地を訪れたのは、そのわずか14年後、1897年のことです。藤本氏は呉服太物類やニシンの行商で下帯広村を訪れ、その活況ぶりに注目し、この時に移住を決意。後に下帯広村大通6丁目の借家で太物商を開業したそうです。

1900年8月に一度富山県に戻り、藤丸の前身となる「北越呉服株式会社」を設立後、同年11月に下帯広村に戻って店員を雇い、東京や大阪から仕入れた古着や古毛布などを販売しました。

1901年に店舗を大通5丁目19番地の木造平屋建てに移転、1915年には故郷の富山から瓦を取り寄せて土蔵造り2階建てに改築します。改築後の店舗は、道内有数の規模でした。

翌1902年、帯広にも大きな変化が訪れます。下帯広外8ヶ村を廃合し、帯広町・伏古村・幸震村・売買村・上帯広村の1町4村組合として二級町村が施行され「帯広町」となりました。

この頃の大通5丁目は帯広の中心地として、大変栄えていたそうです。

【帯広市政の誕生とともに】帯広駅の開業による駅前店舗を拡大する藤丸

1905年に帯広駅ができ、1907年に旭川までの鉄道が開通。その影響から、繁華街が西2条通りへ移るのではないかと思われていましたが、当時の西2条から西4条まで大区画の帯広区裁判所があり、北と南に分断されていたため発展は足踏み状態。結果的に電信通りや大通が大変賑わうようになりました。

藤本氏は、1916年に「北越呉服株式会社」を「株式会社藤丸呉服店」に変更します。

屋号は現在のものとは異なり、「𠆢」の下に「○」で、「𠆢」は富士山と藤本を表し、「○」は商売を長く和やかに続くようにと願いが込められたそうです。

翌年1920年「株式会社藤丸呉服店」を解散し、個人営業の「藤丸呉服店」に変更します。

1918年、帯広区裁判所用地が用地の半分を帯広町に払い下げられ、そのうちの一部が競売にかけられることになりました。原因は、人口の増加とともに西2条の街並みが徐々に広がったことから、裁判所用地が街の繁栄を妨げになっていたことです。

そこで、1919年2月、長蔵氏は西2条南8丁目角地と西2条9丁目角地を相場の2倍以上の高値で購入し、人々を驚かせたそうです。

【呉服店から百貨店へ】鉄筋コンクリート4階建て道東初のエレベーター設置

1930年に「藤丸呉服店」を「藤丸百貨店」と改め、西2条8丁目に木造一部鉄筋コンクリート4階建ての店舗を新築・移転しました。

1階は雑貨、食料品。2階は呉服類。3階は洋服類、和洋小間物。4階は貴金属、家具類、理髪・美容室の構成で、売場の他には1階に預かり所とトイレ、2階に休憩室、3階に大食堂・喫茶室、4階には大ホールを設けていました。

高さは27メートルで、この年の春に完成した本願寺西別院を超えないように1メートル低くしたそうです。

道東初のエレベーターを設置し、屋上から街並みを見下ろせることからも大評判だったそう。このエレベーターは蛇腹式の扉で、エレベーターガールが手動式ハンドルで操作していて、動き出すと各階の床が上下するのが見える造りでした

初めて見る、未知の乗り物なので、靴を脱いで乗ろうとしたり、「失礼します」「お邪魔します」と言って入る人もいたんだそう。

1931年、屋上にサル・ウサギ・子熊などがいる小動物園を開園し、子どもからも大人気の場所になりました。

大ホールでは、絵画展や書道展、生花展など各種行事が開催され、ただ物を売るだけではなく「十勝・帯広の文化の発信地」として大きく貢献する商業施設へと成長。

当時、人口わずか約28,000人の帯広町で、昭和初期の不況のさなかにもかかわらず呉服店から百貨店に切り替えて軌道に乗せることに成功しました。

1933年、市制施行で帯広市となり、市章を制定します。

【戦前から戦後へ】戦後混乱期でも地元に寄り添う百貨店として尽力

1936年にNHK帯広放送局が開局し、1940年には十勝大橋が完成。1941年、帯広高等獣医学校(現在の帯広畜産大学)が開校するなど、帯広市はどんどん発展していきます。

第2次世界対戦(1939年-1945年)終戦後の食糧難の時、藤丸百貨店では、日用品交換所を開設し、衣料品と貴重な砂糖などを交換する人々で賑わいました。この時代からすでに、地元民の暮らしに寄り添った企業だったことがうかがえます。

1945年に初代・藤本長蔵氏が死去、甥の孫信が二代目・藤本長蔵を襲名し、1949年に社長に就任しました。翌年1950年に現在の社名である「株式会社藤丸」に改称。

1958年から1961年の岩戸景気は日本人の暮らしを大きく変え、戦後の品不足が解消され、大都市と地方の格差も縮まりました。

マスメディアの発達により、東京の流行が翌日には地方にも届くようになり、次々に生まれる流行品を十分に取り揃えることが必要不可欠となりました。そのためには、今までの店舗はいかにも古く、西2条南9丁目角地に新店舗を建設することが決定します。

【高度経済成長から現代へ】モダン建築にエスカレーター設置。道東の流行最前線

1961年3月から工事が始まり、同年11月に二代目となる新館を新築し、移転・拡張されました。この建物は、総工費2億8,000万円がかけられ、総面積7421.8㎡。地下1階、地上6階、塔屋2階の十勝一モダンな高層建築物で、内部設備もエレベーター2基を備えた道東一の最新設備でした。中でも、当時の北海道では珍しいエスカレーターを3階まで設置し、地元民をまたも驚かせました。

移転直後、初代店舗建物は藤丸系列の食品スーパー「ふじもとストア」が1962年に開店し、スーパー閉店後には三代目店舗の新築まで商品倉庫として使用されていました。

1962年4月、屋上遊園地が開園し、同年7月には屋上にロケット型・一部電飾仕掛けのナショナル広告塔が設置されました。この広告塔は、先端が灯台のようになっていて、帯広の夜空を明るく照らしていました。1959年に完成した「かじのビル」屋上の日立のネオン塔とともに、夜の帯広のシンボルになりました。

1965年には、売上高13.8億円を上げ、人口の多い小樽や旭川の百貨店を上回るほどまでに成長させました。

1969年頃には、次々と出回る流行品などのために売り場の面積が足りなくなり、増築工事が決定します。同年3月に着工し、11月に晴れてリフレッシュオープン。この時、エスカレーターを6階まで増設する工事も行いました。

この頃、金市館が4階建ての新店舗を建設したり、地元大手の「有沢呉服店」が西1条南9丁目の農協連ビルを改装し広小路から移転オープンしました。また、地下1階、地上7階のサニーデパート(現坂本ビル)が衣料専門店などをテナントにしてオープン、当時量販店トップクラスの「長崎屋」が進出するなど、帯広の商店街が急速に大型店舗化していきました。

【現代から閉店へ】地元に寄り添いながら藤丸さんは、122年の歴史の幕を閉じます

1982年3月「帯広二・八西地区第一種市街地再開発」事業で、初代店舗が立地していた場所に「ふじまるビル」を建設し、三代目にあたる現在の店舗を新築・移転しました。こちらのビルは、地上8階、地下3階建てで、地下2・3階は駐車場として使用されています。

1980年代〜2000年代にかけて帯広市では、広小路全蓋アーケードが完成、現在地に新帯広空港(とかち帯広空港)が開港、帯広市民文化ホール開館、国道236号(天馬街道)開通、帯広の森スポーツセンター完成など、市民の生活の基盤となるものも整っていきました。

藤丸では2002年7月から定休日を廃止し、現在にいたるまで、ほぼ年中無休で営業を続てきました。そうして、帯広の発展のそばにいつも寄り添い、多くの市民から愛され続けてきました。

編集子にとっても、幼い頃、祖父母と家族で週末になると少しだけ綺麗な洋服に着替えて「藤丸さんでご飯を食べよう」と行ったことが思い出です。少し大人になると「藤丸さんの包装紙で贈り物を」とお中元やお歳暮、親戚への贈り物は藤丸さんでした

みなさんも、十勝に住む人、誰しもが藤丸との思い出を持っているのではないかと思います。

藤丸閉店のニュースは地元民にとって2022年最大のニュースで、多くの驚きと寂しさを感じさせました。

2023年1月末で閉店を迎える藤丸ですが、事業再生の計画が進んでおり「新藤丸」として、生まれ変わります。

これまでも十勝・帯広と共に歩んできた藤丸が、今後も変わらず寄り添う企業として進化することを切に祈ります。(スマヒロ/ライター・髙島)

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