SORAtoでは、地方創生ベンチャー「そら」と十勝のために働く・動く・考える人たちを紹介していきます。前編に引き続き、2023年1月31日で122年の歴史に幕を下ろした「藤丸百貨店」の再建を担う、帯広日産自動車の親会社「村松ホールディングス」の村松一樹社長です。前編では村松氏の生い立ちや人物像に迫りました。後編のテーマは「藤丸再建」です。
取材・文/北川宏(SUMAHIRO.COM 編集長)
株式会社そらの米田健史代表取締役CEOとの接点は高校時代
―藤丸再建はどういった流れで舞い込んできたのですか
藤丸が閉店する可能性が高いことは聞いていました。2022年の春先に米田代表がスポンサーとして手を挙げたことも聞いていました。今振り返れば、経営者として大きな英断だったと思います。あの時、米田代表が手を挙げていなければ、相当な確率で藤丸は閉店セールもできないまま閉店、従業員には退職金はなく、施設は廃墟になっていたかもしれません。そんな中、初めてお会いしたのが9月でした。
米田代表が野村證券時代に営業先として訪問してくれたことは後で知ったのですが、その時には当社の窓口が“気を利かせて”門前払いしたそうです。名刺交換して話をすると、実は互いの高校が隣だったことがわかりました。米田代表の母校も文武両道の学校でしたから、ライバル的な存在でした。多感な時期を同じ地域で同じように育った話ですぐに盛り上がり打ち解けました。
―同郷のよしみで藤丸再建を決めたと
いえいえ、それが1回目の出会いです。それからしばらく経って、忘れもしない11月25日でした。当社のオフィスに来てこう言うんです。「藤丸閉店後には新しい藤丸を立ち上げます。村松さんにご協力を仰ぎたい」と。そう聞けば、誰しもが「もちろん、できる限り」と回答するでしょう。私も「藤丸の応援団として微力ながら」と伝えました。その日はそれで終わりです。
3回目は5日後の11月30日でした。開口一番に米田代表はこう切り出します。「新しい藤丸の社長になってほしい」と。さすがに驚きました。私も経営者の端くれですから、あれこれ今後の展望について質問しました。すると米田代表は全ての問いに納得のいく回答をしてきました。「これは只者じゃない」と感じました。
―米田健史という男に惚れたと
惚れたというより「彼と経営をすれば、こうしたワクワクするやりとりを続けながら進めていける」と純粋に未来図を描けました。とはいえ、新たな藤丸の社長を引き受けるということは相当な時間を割く必要があるし、相当の熱量を注ぎ込まないと立ち向かえないことも事実です。話を伺い、すぐに当社の幹部を集めました。米田代表にはそのまま待っていてもらったのは米田代表と仕事するにはスピードが大事だと感じたからです。
―幹部の皆さんの答えは
一瞬で決まりました。「今、米田代表から新しい藤丸の社長を打診されたがどう思う」と伝えると、返す言葉で「ぜひ引き受けてほしい」との満場一致の結果でした。帯広日産自動車の幹部の殆どは帯広市民で「藤丸は我々の精神的支柱のひとつで、閉店は悲しく残念なニュースでした。その藤丸の再建を村松社長が担ってくれるのであれば、それは我々にとって誇りです」ということでした。私に悩む余地はありませんでした。良い意味で、私に断るという選択肢はなくなりました。
2人の意見は一致。ランドマーク「藤丸」は消えてはいけない
―決断は村松さんが大事にしているスピード感だったと
閉店まで2ヶ月前で時間がありませんでした。スピード決断もMBOして、オーナー会社である強みが発揮されました。課題は山積ですが、今後も2人で迅速かつ丁寧に判断して解決していきます。
―2人が再建を考える上で大切にしていることは?
この素晴らしい十勝・帯広の顔は街中だと思います。その街中のランドマークである百貨店「藤丸」を廃墟にしてはならない、ということです。他の地方都市でも百貨店が廃墟になって街が蝕まれている例があります。帯広の街中を同じようにしてはいけない、ということです。我々はこの想いひとつでスタートしました。
―百貨店として残すということですか
百貨店というビジネスモデルがこれまでのフルサイズでは現代のニーズに合致していないことは、特に地方都市において明らかとなっています。
それでも百貨店の全てにニーズがないというわけではありません。藤丸さんの包装紙が贈答品の際に求められていること、百貨店で買い物をするという品位もそう。百貨店としての一部は残すべきだと思っています。そこに新たなお客さまを呼び込むコンテンツの創造が必要だと思います。そこに経済合理性を持たせて再出発させるには多くの知恵が必要でしょう。
―決まっていないことが多い中、もう少し具体的には
十勝には農業を中心とした経済基盤があり購買力もあります。“食”というキーワードでは多くの経済合理性をもたらすでしょう。例えば、少し価格は高いけど、質の高い食文化を提供できる場所。デパ地下的要素を拡大して残すことを考えています。十勝だけに捉われず、全国の旨いが集まる場所でもいいですよね。子育て世代向けのコンテンツも必要ですし、シニア向けの信頼と価値に裏打ちされた商品も必要です。
人はチェンジできるし、会社も変われますから。
―楽しそうですね。
閉店までは緊張が続きました。しっかりと閉店まで漕ぎ着けなければ次に進めないという危機感が強かったからです。今も緊張感はありますが、同時にワクワク感もあります。責任も重く、大変なことも続くでしょうが、米田代表とあれこれ決めて行けるということも踏まえて、モチベーションは高いですよ。
―課題山積、前途多難という言葉も飛び交っています
我が国では、時より「100年に1度の危機」という言葉が飛び交ったりしますが、100年も経たないうちに石油ショック、バブル崩壊、ITバブル崩壊、リーマンショックなどなど、多くの経済危機はありましたよね。そのつど、乗り越えているから今があります。
大手自動車メーカーだって100年も経っていない会社ですし、100年に1度と言われても正直、ピンとこないと思いませんか。大変なことは今に始まったわけではありません。変化が生じれば、それに対して柔軟に対応して、課題を解決していくことが重要です。経営者はそのために、正しい情報を集めて、整理して、判断をするのが仕事です。方針が決まれば、人材を適材適所に配置してスタートするだけです。
―情報に踊らされず、冷静に判断を下していくだけですね
悩んでいても、解決はしません。課題があるのであれば情報を集めて、整理して判断を下して前に進めます。経営方針というか理念でもあるのですが、とにかく「前向きであり続けること」を信念としています。インタビューの冒頭に戻っちゃいますが、私の人生で最も大事なのは、高校3年生のときに経験した挫折を忘れないことです。当時は「ボールよ、飛んでくるな!ミスしたどうする」と悲観主義者でしたが、それを見抜かれてレギュラーから外されて甲子園で試合に出られなかったことを忘れてはいけないんです。
最後に、当時のチームメンバーのピッチャーの話をしましょう。
彼は、9回裏1対0でツーアウト満塁、カウントノースリーという極限状況下であっても三振がしっかりと取れるピッチャーでありました。心の強さは、努力に裏打ちされた自信からでした。「俺なら絶対できる。それだけ努力をしてきたじゃないか」と自分に言い聞かせることができたからですね。その姿を見せつけられた私は「彼みたいになりたい。彼みたいになるべきだ」と誓ったんです。挫折を味わい、それを原点として、良い例を見習い、実践し続けたことで前向きな考えを得られるように変われました。
人は変われるし、会社も変われますから!
村松 一樹 | むらまつ かずき
1962年生まれ。東京都出身。東京都立国立高校時代に甲子園出場。早稲田大学卒業後に日産自動車入社。2013年帯広日産自動車の再建に際して横浜本社から社長として派遣され5年で立て直す。2019年日産本社から同社の全株を取得(MBO)し、名実ともにオーナーとなる。帯広日産自動車:従業員数300名、売上高約100億円。十勝、釧根管内に 15 店舗を展開している。
皆さんが待ち望んでいる新生「藤丸」に向けた動きが加速されています。開店セレモニーが待ち遠しいですね。