インタビュー

新 藤丸を背負う村松一樹という男(前編)

SORAtoでは、地方創生ベンチャー「そら」と十勝のために働く・動く・考える人たちを紹介していきます。今回は2023年1月31日、122年の歴史に幕を下ろした帯広市のデパート「藤丸百貨店」の再建を担うキーマンにインタビュー。藤丸の新会社トップであり、帯広日産自動車の親会社「村松ホールディングス」の村松一樹社長です。村松氏とはどんな人物なのでしょう。村松社長の横顔をご紹介いたします。

PROFILE

村松 一樹 | むらまつ かずき
1962年生まれ。東京都出身。東京都立国立高校時代に甲子園出場。早稲田大学卒業後に日産自動車入社。2013年帯広日産自動車の再建に際して横浜本社から社長として派遣され5年で立て直す。2019年日産本社から同社の全株を取得(MBO)し、名実ともにオーナーとなる。帯広日産自動車:従業員数300名、売上高約100億円。十勝、釧根管内に 15 店舗を展開している。

私の原点は高校3年生の時に出場した夏の甲子園です

―村松一樹という人について教えてください

東京生まれ、東京育ちです。ただ東京と言っても23区ではなく日野市で育ちました。1962年生まれなので、昨年還暦を迎えました。私の原点の話をすると高校3年生の頃まで遡ります。小中高と野球に打ち込み、高校3年生の時に西東京大会で優勝して夏の甲子園に出場しました。

ここまでの話からは、野球選手として華々しいイメージを抱くかと思いますが、実はそうではないんです。少年時代から野球はうまい方で、高校入学後も1年生の秋からレギュラーでした。ところが、甲子園に出場する少し前、高校3年生の夏の西東京大会の4回戦で、レギュラーを外されたんです。背番号は4番、ポジションはセカンドでしたが……。

甲子園まであと4試合。控えに回された後、チームは4回戦、5回戦、6回戦、決勝と駒を進め、西東京大会で優勝し、甲子園に出場しましたが、とうとう私の出場機会はありませんでした。

小学校から夢見た「夏の甲子園」。夢の舞台で挫折を味わいました。この強烈な挫折感が私の人生の原点となりました

「村松には積極性がなかったから」

―文武両道の高校だったと聞きました

私の通っていた東京都立国立高校は、文武両道で文事と武事、学芸と武芸、その両道に努め、優れていた高校でした。

野球部の同級生は10人。1学年上が2人しかいなかったこともあり多くが1年生から試合に出ていました。1年生の時に1回戦敗退、2年生の時も2回戦留まりでしたが、試合慣れもした3年生では見事甲子園出場を勝ち取りました。

その間、皆勉強もしっかりしていました。実際、甲子園にいった仲間のうち4人は、卒業後に東京大学へ進学。他のメンバーも一橋大学、横浜国立大学、北海道大学、防衛医大、日本医大、まさに文武両道を貫きました

―なぜレギュラーを外されたのでしょう

ところが、監督は見抜いていたんです。大人になって振り返れば、どこかで力を抜いている自分がいました。つまりは、他の仲間と比べると努力を怠っていたわけです。50歳になった頃、当時の監督から人伝えで聞きました。「なぜあのとき村松さんをレギュラーから外したんですか?」に対して監督は「村松には積極性がなかった」との一言。きつい話でした。それでも納得できました。前述した通り、チームの仲間よりも努力を怠っている自分がいて、それを見透かされていただけでしたから。

―外された理由は、心のどこかでわかっていたと

正直、守備においてピンチのときは「ボールよ!飛んでくるな」と思っていた自分がいました。私の代わり出場した後輩選手はピンチのときこそ冷静にボールを捌く選手でした。外された後のその活躍ぶりを見て「負けた」とも思ったのも事実です。何より、私が外された後の試合でさらに経験を積み、どんどん成長する仲間たちの姿を横目に、悔しさは深まるばかり。実は甲子園の試合中、「今出場してもしっかりと捌く自信がない」と感じていた自分もいました。何度も言いますが、まさにあの夏の出来事が私の人生の原点となりました。18歳で挫折を味わったおかげで今があるんです。

挫折を味わった原点をバネに日産自動車で頑張った

―早稲田大学卒業後は日産自動車に入社しました

高校3年生の時に味わった悔しさが、その後の人生において功を奏しました。高校卒業後は早稲田大学に進学し、新卒で日産自動車に入社。日産時代は私なりに努力を続けました。「凡人である自分は努力を怠れば、また高校3年生ときのように道が閉ざされる。常に力を抜いてはいけない」という思いを抱きながらここまで歩めました。

―転機は50歳で訪れたと聞きました

はい。50歳になる年でした。ちょうど監督に理由を明かされた歳でした。会社のトップに立ちたい。自分の裁量で仕事をしたい。グループ会社の社長になる試験を受験しました。当時30人ほど受けた試験で3人の合格者の一人となり、現帯広日産自動車の社長というポストを勝ち取りました。

―帯広日産自動車の村松社長の誕生ですね

ただ、会社のトップといっても雇われ社長でしたから、本社の意向を組みながら確実に売り上げを上げていくことがミッションでした。

―東京から北海道十勝への移住で家族は反対しませんでしたか

反対はありませんでした。確かに日産自動車の本社勤務が長く、元々、本社のあった銀座と移転後の横浜が勤務地でしたから家族もずっと都会生活でした。それでも、子ども達は「お父さん、頑張ったね。社長だね」と褒めてくれましたし、三重県紀伊半島の突端に近い場所が出身の妻は「田舎が性に合っている」と移住(異動)には大賛成でした。

十勝という場所で、私も含めて家族が大きく育ち感謝しています

―十勝での生活はどうでしたか

大平原と日高山脈という雄大な景色は、家族をおおらかな気持ちにさせてくれました。妻と子供達、そして私の心にもどこか余裕をもたらせてくれたのでしょう。子どもたちは十勝帯広での生活でどんどん成長してくれています

―どう変わったのでしょう

長女はダウン症なのですが、十勝にきてからコミュニケーション能力が高まり、弟たちと口喧嘩をするまで自分の感情をしっかりと伝えられるようになりました。長男は「日本の歯周病を撲滅させる」という目標を抱き、東北大学の歯学部に通っています。次男は目下、大学受験中です。実は3年前の2019年にMBO(マネジメントバウアウト)をして、帯広日産自動車のオーナーになった際、次男が「後を継ぎたい」と言ってくれました。その際に、私が出した条件が「最低でも北海道大学に進学しなさい」でした。当時の次男の実力では、北海道大学はかなり難しいことはわかっていましたが、あえて厳しい条件を出すことで、経営者になることはそれほど大変なことだと、わかってもらいたかったからです。

―十勝に移り住んで、よかったということですね

もちろんです。MBOの動機は「本当の意味で自分の裁量で経営をしたい」「このまま十勝に残って、今のメンバー(社員)と共に仕事をしていきたい」と思ったからです。十勝という風土と帯広日産自動車の社員、そして、ここで出会った多くの人たちと共に生活をしていきたいと思えたからMBOという挑戦を選びました。MBOについては、当時の日産自動車のみならず、多くの自動車メーカーの中でもこの規模のグループ会社をMBOして独立という前例はありませんでした。多くの金融機関の方々に支えられ、日産自動車本体からも理解を得られて実現できました。

―MBOについても家族は反対しなかった?

むしろ「お父さん頑張れ」と背中を教えてくれました。知らず知らずのうちに父親の姿を見ていてくれていたようで嬉しかったですね。それもすべては、私が忙しく家に帰れないときも、子どもたち3人をしっかりと育ててくれた妻の支えがあってこそです。子どもたちだけなく、私をサポートし続けてくれている妻には感謝しかありません。大切な家族と社員を守ることが私の使命だと思っています。

―MBOと定住は十勝というポテンシャルにかけたんですよね

十勝毎日新聞は、多くの十勝の人が読んでいますよね。そして、十勝に住む人たちは人生のうちで何度か掲載される機会を得ていると思うんです。何が言いたいのかというと、十勝のマーケットサイズと強い地方紙により成長を促し続ける稀有な市場ということです。都会では個は埋没してしまうんですが、十勝は誰しもが光を浴びる瞬間を感じられる地域なんです。頑張れば、成果や結果につながることを実体験として得られる地域ってすごいと思わないですか、私はここで妻と子どもたちと暮らし、皆が成長する姿を見てきました。また、帯広日産自動車で働くメンバーと頑張ったことでMBOにもつながりました。頑張れば、輝くことができる。これも十勝の良さだと思っています。

藤丸の再建は、感謝への恩返しと使命感です

―もう少しMBOについて教えてください

帯広日産自動車の当時の売上は100億円規模でした。私の父は戦後間もなく新潟県から集団就職で東京に出てきました。東京で苦労しながら私を育ててくれた家庭でしたので、資産なんかありません。MBOの資金は金融機関の支えがあってこそできました。直近の売上や財務状況、将来性などを見ていただき判断してもらいました。

―MBO後も順調だと伺いました

現在に繋がっているのは、全て従業員の頑張りです。雇われ社長からオーナーになっても変わらずついてきてくれたからこそ、その後の成長につながりました。日産自動車が技術に裏打ちされた素晴らしい商品を提供してくれているので自信を持って販売できているということも事実です。皆が支え合い、信じ合えるからこそ上手くいくのだと思います。高校時代の野球部のメンバーとは今でも繋がっています。多くのメンバーが社会で成功し、帯広にもよく遊びにきてくれます。子どもにも言っていますが、成長する秘訣は努力を怠らない仲間を得て、負けずに自分も努力することです。

―そろそろ藤丸再建の話もお聞きしたい

順調に会社が成長するなかで、経営者としても努力を怠らなければ「皆が頑張ってくれて事業展開は上手くいくんだ」と感じたころ、「そろそろ社会貢献、恩返しをするべきでは」と思いました。ロータリークラブや商工会議所での活動を通して地域の発展に力を注ぐようになっていく中で出会ったのが、株式会社そらの米田健史代表取締役CEOです。彼との出会いが藤丸再建へと繋がっていきました。

以下後編に続く

取材・文/北川宏(SUMAHIRO.COM 編集長)

関連記事

TOP